公人の名誉について

ネット上では、大震災以後、以前にまして政府に対する批判等がかまびすしい。批判にも様々な質のものがあるが、中傷や罵詈雑言の類は、民主的政治過程のもとでどのように機能するだろうか。

長谷部恭男教授は、公共の利益と公人のプライヴァシー・名誉の関係という論点に関連して、以下のように仰る。

「政治家の場合でいえば、政治家に対する名誉毀損の成立範囲を限定することで、市民は政治家の公的活動について広く情報を得ることができる一方、名誉を気にかけない人間からだけ政治家を選ぶことを余儀なくされるおそれが生ずる。」


長谷部恭男『憲法(第4版)』(新世社、2008年)165頁

なお、ここで、名誉とは人の社会的評価、名誉権とは「人の社会的評価を保護する権利」のことである(前掲書162頁)。また、一般に名誉毀損には、事実摘示によるものと論評によるものがあるとされる。

さて、「名誉を気にかけない人間」として、長谷部教授が想定されているのは当然ながら、『自省録』のマルクス・アウレーリウスのような、「指導理性」に従い、敢えて社会的評価への関心を放擲しようと試みる内省的な為政者ではない。ここでの「名誉を気にかけない人間」とは、ただ単に厚顔無恥で傲岸不遜な人物のことであろう。
政治家が政策的批判の対象とされるのみならず、人々のフラストレーションのはけ口とされることまでも社会的に広く是認されるのであれば、たとえ政治家として優れた資質、潜在能力を持つ者であっても、実際に政治家を志すことは躊躇するであろう。そのような状況においてなお、dennoch! と覚悟を決めて政治家を志す有能な人物が現れる、ということはあまり期待できそうにない。