木村先生のご論文を拝読しました(6月17日に加筆・修正)

木村草太「無限に連なる3LDK(75m2)――選択肢の不可視化とソフトロー」(以下「本論文」という。)を読みました。本論文の感想や、少し調べてみて考えたことを書きます。

(1)
まず、本論文の内容を要約します。
「緒言」では、本論文の構成が説明されています。
第一節「nLDK」では、nLDKという住宅デザインが「建築におけるソフトロー」であり、nLDKは核家族の需要を想定した住宅であることが述べられます*1
第二節「閉じられた核家族」では、核家族の形成という選択に関する「永遠不変の自然」や「合理的選択」といった説明が批判されます*2。そのうえで、家族形態に関する〈選択〉は「極めて限定された選択肢の中からなされる作用である」として、核家族という家族形態の〈選択〉が「選択肢を選択可能な数にまで限定する無意識的な作用(選択肢限定作用)」の帰結であるという見解が示されます。
第三節「認識枠組みの固定化」では、上記のような選択肢限定作用を有する「意識化困難な認識枠組み」がいかにして固定化されるのかが論じられます。この「固定化」について木村准教授は、「ある特定の認識枠組み以外の認識の可能性が提示されない状況によって、認識枠組みの固定化がもたらされる」と説かれます。
「結語」では、以下のように本論文の結論が示されます。「我々の〈選択〉は、認識枠組みにより限定されている。認識枠組みは、それを前提にした行動や表現に触れることにより固定化される。認識枠組みの提示と選択肢の限定による人の規律、これはソフトローの一種である。その種のソフトローは、ハードローによる規律以上の強力さを発揮することになる。」
(2)
木村准教授は、別の論文において、「中里教授は、文化説が単なる結論の言い換えにすぎない、ことを指摘する」「確かに文化説は、何がそのような文化をもたらしたのか、を説明できなければ、文化説は単なるトートロジーに終わる。」*3とされています。
このご指摘を踏まえるならば、本論文で提示されている説明――「特定の認識枠組みを前提にした表現や行動のみが支配的となり、それ以外のものが示されない状況は、その表現や行動の示すところの認識枠組みを固定化し、それ以外の枠組みからの世界認識を妨げることになる。」(9頁)という説明――もまた、「単なる結論の言い換え」「単なるトートロジー」に過ぎないように思われます。
すなわち、本論文では、「(核家族のみが家族形成の際の選択肢だとする)認識枠組みはいかにして固定化されるのか」という問いに対して、その答えの中で既に核家族の形成という行動様式が支配的であるような状況が前提とされており、何がそのような状況をもたらしたのかについては説明されていません。
(3)
ある行為者の選択については、(a)選択(行為)自体の客観面に関する説明と、(b)選択者(行為者)の主観面に関する説明とを区別できます。そして、木村准教授が「認識枠組みの固定化」として論じようとされたのは、(b)選択者(行為者)の主観面に関する問題です。
この問題意識は、たとえば、以下の議論と通底しています。「文化現象のうちには、事実上強固な構造をもち、人びとの思考をあたかも外から枠づけるかのような作用を果たしながら、その構造、作用がほとんど意識されないものがある。」*4
本論文の考察は、この「再生産」という視点に限局して展開されるべきではなかったかと思います。それは、「合理的選択」説に対する本論文の批判が、少し安易ではないかと考えられるからでもあります。
本論文には、「十分な収入がある男性/女性にとって、複数の女性/男性との間で並行的に複数の家庭生活を持つことも経済的に不合理な選択肢ではない。」(6頁)とあります。これは、木村准教授のお考えになった、経済的な合理性判断です。
しかし、「十分な収入」とは年収いくらで、どれだけの割合の人がその収入を得ているのか、という疑問があります。また、一人の相手と家庭関係を維持する際の利得と損失、複数の相手と家庭関係を維持する際の利得と損失のそれぞれを、もう少し丁寧に見ていかなければ、「十分な収入」があれば複数の相手と家庭生活を持つことも合理的であるとは断定できないように思います*5
核家族の「合理性」を検討するに際しては、収入の多寡や分業の効率性のみに視野を限定することなく、核家族の持つ複合的な機能合理性を観察していくことが必要であると考えます。
(4)
核家族の(a)選択(行為)という客観面に関する説明としては、以下のようなものがあります。
まず、文化人類学者のマードックは、核家族が担う「人間の社会生活にとって基本的な四機能」として、「性的機能」「経済的機能」「生殖的機能」「教育的機能」を挙げたうえで、「どんな社会でも、核家族に代わって、こうした機能を移譲できる、適当な代替物の発見には成功していない」と述べます*6
また、社会学者のパーソンズは、「高度に分化された社会」における家族(核家族)の基本的機能として、「子どもが真に自分の生まれついた社会のメンバーとなれるよう行われる基礎的な社会化」及び「社会の人びとのうち成人のパーソナリティの安定化」の2点を挙げます。後者の機能は、「家族の男女成人メンバーのパーソナリティの均衡調整」とも表現されています*7
これらは、核家族に関して、「機能」概念に依拠した観察に基づいて目的論的説明を行ったものです。ここでは、行為者によって意識される選択肢や行為者による比較考量といった、行為者の主観面は捨象されています。上記のような家族の機能に関する議論は、「核家族」という選択が惹起する様々な波及効果を視野に入れつつ、その「合理性」分析を行ううえで、有用な視点ではないかと思います。



木村草太「無限に連なる3LDK(75 m2)――選択肢の不可視化とソフトロー」
http://www.j.u-tokyo.ac.jp/coelaw/COESOFTLAW-2007-14.pdf
同「ハードローの存立基盤――選好順位・予期・一般化の枠組み」
http://www.j.u-tokyo.ac.jp/coelaw/COESOFTLAW-2007-2.pdf

*1:石原千秋教授による、これと同様の視点を示す論考があります。石原教授は、「3LDKは、まさに近代家族の理念によって生み出された住宅だったのである.」「いったん生み出された3LDKという器は、家族の理念を制度として強化する働きをするはずである.」と説かれています(石原千秋「家族―見えないシステム」淺沼圭司、谷内田浩正〔編〕『思考の最前線』(水声社、1997年)、151頁)。

*2:本論文には出所が記載されていませんが、ここで批判されている「合理的選択」説と「シグナリング」説は、たとえば、アントニィ.W.ドゥネス、 ロバート.ローソン編著、太田勝造監訳『結婚と離婚の法と経済学』(木鐸社、2004年)の中で議論されています。

*3:木村草太「ハードローの存立基盤――選好順位・予期・一般化の枠組み」、3頁。http://www.j.u-tokyo.ac.jp/coelaw/COESOFTLAW-2007-2.pdf

*4:宮島喬『文化的再生産の社会学』(藤原書店、1994年)、222頁

*5:なお、本論文には「並行的に複数の家庭生活を持つこと【も】経済的に不合理な選択肢ではない」とあります。二者択一の状況(ここでは単一の家庭生活と複数の家庭生活の二者択一)において、一方の選択【も】不合理ではないとは、何か。この文は、やや明瞭さを欠いています

*6:G.P.マードック著、内藤莞爾監訳『社会構造―核家族社会人類学』(新泉社、1978年)、32-33頁

*7:T. パーソンズ、R.F. ベールズ著、橋爪貞雄ほか訳『家族―核家族と子どもの社会化』(黎明書房、2001年)、35頁・39頁